2015.8.27
私もこれまでの海外経験で、「日本人は何教を信じているの?」という日本人のコア、宗教に関する質問を良く受けました。そしてこれと同じくらいの頻度で、「日本のテクノロジーってすごいよね」という評価も受けているのです。これには日本の武に関する態度とそれに対する外人の評価も含んでいるのかもしれません。
スコットランド独立に関して、やっぱり北海油田を開発できるようになった深海掘削のテクノロジーは、独立の賛否、可否、と大きく関わっていました。
なるほど、かつての「武」というものは、まずは「経済力」ということですね。自分の足で立っていられて、飢えることがない。そういえば、歴史をみてみると、なぜ侵略するか?なぜ既存勢力を追い払おうとするのか?ということの陰に、資源の配分に関する不満や、食っていけない状況、というのがあったのでは?と思います。もともと武の意味するところは、食べ物などの資源、リソースを求めた略奪の意味もあったでしょうから・・・
でも日本は島国で海洋・農産物も豊富、飢えることはなかったと思いますが、日本はなぜ外圧に対する「武」の発想を育てていったのですかね??
そうですね、そこは面白いところですね。江戸から明治の社会では、資源が必要だったから「武」が奨励された、ということではなく、むしろ思想的な問題でしょう。
江戸時代には陽明学の影響で、”武はこういうものだ(例えば、武士道的な”抑制”)“というマインドコントロールを受けていた(いい意味も、悪い意味も)のでは。。
欧米の侵略を直に見て、やっと世界標準は武士道でないことに気がついた、とか。。
強いものが”攻撃して奪う”、これが標準だったと。。(笑)
穿ちすぎですか?? ここはまた別の機会に詳しくつぶやきたいですね。。。
あるいは日本の社会を安定化するための、思想統制だったのかもしれませんね。そして信長や秀吉、家康もみてみると、内なるものを納めれば、その力は外に向く、これが武を増強させるエネルギーだったのでしょうか?
それとも平和であっても、闘争ということが人間の生まれ持った本能なのでしょうか?